シリアだより(イスラム編)

  ここへ来てイスラム関係の本を薦められて何冊か読んだが、岩波新書の「イスラムの日常世界」片倉もとこ著がなかなか面白かった。日本人の考え方と比較して、イスラム世界や西洋のキリスト社会が少し、わかるような気がした。
 要するに、イスラムの教えは、多くの違った考えをもち、いろいろな風俗習慣などをもつ人々が構成する社会の秩序を保つために考え出された知恵の集大成のようなものだと理解した。
 結局、5つのテーマについて少し、考えてみた。「神様はたくさんいると困る」、「宵越しの金はもたねー」、「断食といっても夜になると豪勢にやる」、「人間は弱いという話」、「労働は必要悪で罰だ」である。

「神様はたくさんいると困る」
 キリスト教徒が17億、イスラム教徒が10億、合わせると地球上の人口の半分を占めるという。一地方の宗教がどうしてこれほど広がったのだろうか。一つには、一神教ということがあるのではないだろうか。ムハンマドの話を知って思い当たった。神様が多すぎると困るのだ。われもわれも神様だといわれてはしめしが付かない。日本のようにしめしがつくところでは、狭いところでは一神教の必要はない。争いが絶えず、何とか、神様が一人でみんな、神様がいわれるとおりに従わなければならないというしくみを創らないと収まらないのでこのような知恵が現れたのではないだろうか。
 最初、ユダヤ教徒が神様は1人だと主張し始めた。選民、選ばれた民だということでユダヤ教をユダヤ人だけの世界に制限したので広まらなかった。ユダヤ教との一人であるキリストが現れてその神性を信ずるキリスト教が生まれた。キリスト教はその制限をしなかった。イスラム教は、始祖ムハンマドが西暦600年代に始めた。ムハンマドは神の前ではすべて人間は平等である、ムハンマドは単なる「神の使徒」にすぎないとした。一神教のユダヤ教が本家で、キリスト教が分家、イスラム教が少し後の親戚といったところである。
 ムハンマドはメッカで生まれ、そこで神の啓示を受け、神の言葉を伝え始めた。多神教を批判したので迫害をうけた。しかし、都合のよいことに622年、争いごとが絶えないメディナ(メッカの北300km)の一部の信者に請われてメディナへ移住した。そこで、ムハンマドが「神の使徒」であることを全員が建前のうえで信じさせて、つまり、全員をイスラム教徒にし、その地を治めることができた。そして、メッカも武力でやぶり、イスラム教の社会にして秩序を確立した。そのころ、周辺の帝国の力が弱体化していたので、これをきっかけに一大勢力に拡大した。
 つまり、いろいろな考えを持った、多くの人々の社会の秩序を確立し、維持するために神様は一人でないと困る、おれもおれも神様だといわれては困るというところから、この一神教が社会の秩序を維持するためのしくみとして好都合ということで受け入れられて、広まったものだろう、というのが結論である。
(イスラムとは、自分のすべてをだれかに委ねること、アッラーへの絶対帰依)
(ムハンマド:マホメッドのこと)、
(ムスリム:イスラム教徒のこと)


「宵越しの金はもたねー」
 こちらの神様はどんどん儲けなさい。という神様らしい。えらく、現世肯定の、実利的な神様だなと思っていたら、どうも都市の住民の宗教だからということだ。片倉さんはイスラムは「砂漠の宗教」というよりも「都市の宗教」という性格だという。ほうぼうからいろいろな物を持ちよって商いをするための市場(スーク)が都市の始まりとすれば、そこで商いをしてお金を儲けることが良いことでない困る。イスラム社会では、ストックよりもフローが重視されるのだそうだ。つまり、貯めたままとどめておくことは良くないことなのだそうだ。どんどん、つかわないといけない。ザカート(喜捨)という教えがあって、収入の何割かは寄付する義務があるのだそうだ。善意で寄付するのではなくて、教徒の義務なのだ。「あの人はけちだ。」が最大の悪口になる。これも都市の性格を反映している。
(余談だが、中国人の場合は「あの人はけちだ。」が誉め言葉の場合が多い。インドネシアで中国人が襲われるのはその辺の考え方の違いが一つあるらしい。インドネシアはモスリム人口、最大の国である。)
 都市はフロー、ものや金の流れが大事である。これで都市が栄える。これで思い出すのは、江戸である。蓄えがなくてもストックがなくても何とか、年中、仕事はある、物はある、大半の住人は貧乏でも何とか暮らしていけた。このようなところが都市なんだろう。「宵越しの金はもたねー」はストックではなくフローを重視した都市住民のあり方を反映した言葉である。
 ついでにいうと、
 銀行に預けた金につく金利は、じっとさせておいたお金から出てくる利子は汚れたものだと考えるのだそうだ。イスラム銀行では、利子を禁止している。
 一方、日本の江戸時代では、金利は年間100%くらいは普通だったそうだ。これも稲の種子一粒から何十粒もの米が実るので稲作が経済の基本だった時代はこれが妥当な額だったらしい。

 都市の宗教らしく、情報、知識(イルム)について重要視しているふしがある。儲けるためには情報が必要である。どこに何がある、だれが何を欲しがっている、いつごろ、どこで何が手に入るなどの情報である。
「モスクに行った帰り道は、行きに通った道ではない道を通って帰ってくるのが良い。」(めずらしい品物が目に入るかもしれない。)
「礼拝にはできるだけいろいろなモスクへ行きたまえ。いつも同じ人たちとではなく、ちがった人たちといっしょに神の前にひざまずくのがよい。」(ひょっとしたら、何かを必要としているという話を聞くかもしれない。)
「なるべく動き給え。」(ひと、もの、情報にめぐりあえる。)


「断食といっても夜になると豪勢にやる」
 モスリムはラマダーンといって1ヶ月も断食をする。断食といっても日本人が考える断食とはかなり異なる。熱心なモスリムは子供も大人もお年寄りも昼間は水一滴も飲まないが夜になるとみんなで豪勢に食事をする。日本人の考えからすると、断食というのは水以外は飲まない、ある程度の期間、昼も夜も続ける、一般の人がするのではなく特別の人が行う修行である。この違いを比べた結果、つぎの結論に至った。日本人の考える断食は、修行者が悟りを開くために行う修行の一つである。お釈迦様が悟りを開くために修行を行ったことと同じである。一方、モスリムの行う断食は、悟りを開くというよりも砂漠の民が昔、砂漠で生活していた時代の苦労を原体験として子孫へ引き継ぐための方法ではないか。太陽が照りつける日中、砂漠の中には水一滴なくて飢えと渇きに苦しむが、日が落ちると涼しくなり一息つくことができる。この経験を日常生活の中に残して自分を律するかてにしているのであろう。
 片倉さんは「断食する目的は、飢えを体験することによって、食物とそれを与えてくれた神への感謝を新たにし、神を思うことである。食べることのできない者の苦しみを知るためである。」と記している。


「人間は弱いという話」
 片倉さんによるとイスラムの考えは、人間性弱説にたっているのだそうだ。「弱い人間に酒を飲ませると何をしでかすかわからない。酒を飲ませておいてあとで酔っ払い運転を取り締まるよりはさきに禁酒ということにしておけば社会の秩序は保たれて個人も平安であると考える。」だそうだ。また、女性が黒いショールみたいなものをまとっているのも、女性が肌を露出して男性と接触する機会が多いと誘惑に弱い男性が何をしでかすかわからない、だから黒い布で全身を隠すのだそうだ。また、同じ理由で、結婚を前にした男女は多かれ少なかれ恋という病を患っていると考えるのだそうだ。したがって、周囲のものは介抱してやらないといけないということになるらしい。これも砂漠の民、移動する民であるが故の理由があるようにおもえる。アラビア人は男も女もありったけの甘い言葉と心をささげるらしいが、農耕して定住する民族と違い、移動する民族は会ったときに、短い時間のうちに話をつけるためにそのような風俗が生まれたのでは?。農耕民族の代表としてそのうち、何とかなるだろうと、何とかならないできたものにとっては、すこしアラブ人のつめのあかでも煎じて飲まないといけないだろう。
また、「サイルには勝てない」という警句があるそうだ。これは、「泣く子と地頭には勝てない」と同じ意味である。サイルというのは、ワーディと呼ばれる砂漠の中の枯河に1年に2〜3回くらいしか降らない雨が降ったときにできる川で、流されてることがあったりして恐ろしいものらしい。人の力の及ぶところではないので、痛切に人間は弱いと感じるという。


「労働は必要悪で罰だ」
 アーダムとハワー(アダムとイブ)はエデンの園で禁断の実を食べたので追放された。死ぬまで食物を得るために労働をしなければならなくなったんだそうだ。「アラビアの砂漠はいかにもエデンの園からの追放地とおもえる。」(片倉もとこ)砂漠の民にとっては過酷な自然環境での労働は刑罰に等しいと感じられるのだろう。砂漠の宗教といわれる所以である。砂漠の民でない多くの人々がこのような観念にとらわれているとしたら気の毒に思えるが。
 追記:「エデンの園は、あこがれの天国として人びとの心のなかに美しいイメージがえがかれている。こんこんとわきいでる泉のほとり、緑したたる木の陰でおいしいたくさんの食べ物や飲み物を心ゆくまで味わうことができるのだ。」とあった。これで、ダマスカスの水道の水源になっているフィゼースプリングの光景を思い出した。スプリングは上水道水源になっているので不粋なコンクリートの建物で覆われていた。それでも毎秒10トンくらいの水が吐き出し口から勢いよく流れ出していた。そのまえのレストランで大勢の市民が食事を楽しんでいた。ここは、谷あいの狭いところであるが、大勢の人が車でおしかけており、大変な混雑ぶりであった。なぜ、わざわざこんなところまで集まってくるのかなと思ったが、人々はエデンの園の光景を頭にイメージしているのだろう。

 最後に「寿命にはおわりがあるけれども仕事には終わりがない。」
 アル・ウムル・ヤハラス・ワ・アル・アムル・ラー・ヤハラス

 

HOMEへ戻る