雑感:辰巳ダム問題を通じて見る「金沢の洪水」

(辰巳ダム計画では)

 筆者は、昭和55年頃(23年前)、辰巳用水の東岩取水口付近にダム建設が計画されていることを知った。自然環境や文化遺産にかかる影響の大きさから、懸念していたが、当時は金沢の治水のためには止むえないのかなと考えていた。
 ところが、その後、治水に関する計画に対していくつかの疑問点を指摘する識者があらわれた。筆者も土木技術者の端くれとして平成6年頃から土木技術的問題点について検討をはじめた。県の作成した辰巳ダム計画検討書等を検討するうちに、つぎつぎと疑問がわいてきた。そしてたどり着いた結論は「計画洪水が大きすぎるのではないか? 有史以来発生したことのない洪水ではないか?」ということである。
 県の説明では、「1/100確率の雨(おおむね100年に1回程度)が降っても金沢を洪水から安全な町にするためには、考えておくべき計画洪水である。これを実現するためには、2つのダム(犀川/内川)に加えて辰巳ダムが必要である。」という。その計画洪水量は、前計画では、1,920m3/秒(犀川大橋)、新計画(新しいデータで再検討)では、1,750m3/秒(犀川大橋)とした。

(実際に起こった洪水の規模は?)

それでは実際に起こった洪水はどのようなものであろうか?
 県の答えは、記録がないからわからないというものである。

(洪水とは)

 洪水というと自然現象という印象が普通であるが、すぐれて社会現象である。なぜなら、人の住まない、生活の基盤である田畑のない、自然な原野では川が増水しても、どこからどこまでの氾濫かの定義も明確ではなく、人々は氾濫と認識しない。人の生活があって、その生活に影響が現れる場合に、氾濫を意識し、洪水と認識される。

(金沢の洪水)

 そのような観点から「金沢の洪水」をながめると、意識にのぼるのは16世紀ころからだろう。この当時、現在の金沢城付近に一向宗の地侍集団の拠点である金沢御坊があり、まちが作られ始めた。16世紀の終わりに前田の支配下に入り、金沢城とその周辺に城下町が形成された。これ以降、犀川の洪水が金沢の住民の生命と財産をおびやかす脅威として認識されるようになった。
 したがって、1600年ころからの過去400年間を考え、その最大洪水量を考えれば、金沢の洪水対策は万全と考えてもいいだろう。

(過去の大洪水)

 去年の前半の半年をかけて過去の洪水の記録を調査した。(県河川課宛「犀川の治水に関する申入書」平成14年7月26日付け)
 過去の記録をたどると、金沢で起きた大きな洪水は以下のとおりである。
  ■1668■寛文8年(1668)金沢洪水
  ■1783■天明3年8月8日 金沢洪水
  ■1874■明治7年7月7日 手取川犀川洪水
  ■1922■大正11年8月3日 金沢洪水
  ■1964■昭和36年9月16日 第二室戸台風(台風18号)
  ■1998■平成10年9月21日−22日 台風7号
 ほかに、昭和28年8月24日に浅野川大橋をのぞき全橋流失した洪水があったが、犀川周辺では影響が少なかったので除外する。
 大正11年、昭和36年のケースでは降雨データがあるので洪水の規模を推測することができる。平成10年のケースでは洪水観測記録がある。したがって、20世紀の100年間の3ケースについては最も大きい洪水を推定できる。筆者の推定では、平成10年9月の台風7号で洪水量は842m3/秒以下(観測所のピーク量を足して重複分を引いた数値、ズレが発生するのでこれよりも小さくなり、多分、700m3/秒前後)である。
 明治/藩政期時代の3ケースについては、洪水量の規模はわからないが、死者の数を目安とすれば、寛文8年のケースから順に78人、500人余、23人となっている。
 おおむね、100年に1回の割合で大きな洪水被害が発生している。20世紀100年間で発生した最も大きな洪水で800m3/秒程度である。藩政期の洪水の規模は?

(1,750m3/秒!?!)

 県が主張する、1/100確率の計画洪水量1,750m3/秒とは一体、なんだろう?

(参考)

■1668■寛文8年(1668)金沢洪水
・金沢大雨、犀川浅野川洪水、破家223軒、溺死78人、〔玉露集地〕、犀川切れ新竪町本竪町を経、河原町へ暴流、河辺の家屋百余り流失溺死者、、、〔菅家見聞集〕(『石川の土木建築史』石川県土木部)
■1783■天明3年8月8日 金沢洪水
・犀川、浅野川大橋、小橋、仮橋共残らず流失、両川筋にて溺死者500人余、〔政隣記〕(『石川の土木建築史』石川県土木部)
■1874■明治7年7月7日 手取川犀川洪水
・犀川向上藤棚辺の堤防破壊して新竪町、本竪町筋水害〔金沢古蹟誌〕、犀川は1丈2尺の増水、各河川も大水となり県下296ケ村で水田1,003町9反1畝、堤防決壊363ヶ所、14,921間が壊る、橋の流るるもの80、浸水家屋2,673戸、潰家36戸、流出家屋13戸、死者23名、5,021人羅災〔石川県史料〕(『石川県災異誌』石川県)
注)1丈=10尺=約3m、1丈2尺=約3.6m
■1922■大正11年8月3日 金沢洪水
・金沢測候所開設以来の豪雨、4時間で106mm、犀川水位(大橋詰)15尺、大桑橋、上菊橋、桜橋、西御影橋、新橋流失、鉄筋コンクリートを以て建築後尚新たなる大橋を陥没破壊。〔北国〕(『石川の土木建築史』石川県土木部)
注)15尺=約4.5m
注)総雨量 金沢115.1mm
■1953■昭和28年8月24日 浅野川に大被害、前線
・浅野川大橋をのぞき全橋流失。死者1、行方不明3、家全壊1、半壊16、床上浸水4,029。(『石川の土木建築史』石川県土木部)
・床上1,145、床下2,115、浸水(農地)746ha、注)犀川水系の合算値を示す。(『辰巳ダム計画説明書』石川県)
・日本海東部に低気圧があって、この中心から寒冷前線が南西にのび、この前線通過の際、雷雨となって、加賀北部に豪雨を降らせ、多大の被害を生じた。金沢の降水量は六時四九分〜一二時三0分に80.3mmで一時間最大量75.7mmを記録した。(年第二位)豪雨のため浅野川の増水著しく、浅野川大橋を除き全橋梁を流失し、沿岸民家の床上浸水数千戸、堤防決壊、民家の損壊続出し、山岳地方では家屋流出、山崩れ等が生じ、田畑の流出はいうに及ばず多大の被害を出す。災害の甚だしかった金沢市と河北郡浅川、三谷、湯涌の各村に災害救助法発動。(北国新聞)(『金沢市第二消防団史』平成12年1月12日、金沢市第二消防団)
■1964■昭和36年9月16日 第二室戸台風(台風18号)
・床上約1,000、床下約500、浸水(農地、宅地含む)約30ha、注)犀川水系の合算値を示す。(『辰巳ダム計画説明書』石川県)
・第二室戸台風は室戸岬を九時四五分頃通過、阪神間に上陸福井県から石川県に入るという最悪のコースをとった。台風が一五時頃若狭湾東を出て、一六時一九分に金沢で962.8ミリバール、気象台創設以来の最低気圧を観測した後も県下は大体平穏な状態が続いた。しかし一七時一五分頃から急に北西の風が強くなり、一八時0六分に北西30.7メートル(瞬間)を観測、死者8名、行方不明5名、負傷者80名、家屋の全壊143棟、同流失8棟、床上浸水1,327戸、その他被害総額77億円を上回る。(県)(『金沢市第二消防団史』平成12年1月12日、金沢市第二消防団)
■1998■平成10年9月21日−22日 台風7号

もどる