向上藤棚の白山神社が流された!
(藤棚の白山社)
金沢市企業局(浄水場の跡地)の近く、城南一丁目6番地に川上地蔵尊がまつられている。この付近は、小高い丘になっており、神仏混交の成福寺と白山社があった。境内に藤棚があり、春になるとみごとな花をつけ、花見を兼ねた参拝客でにぎわっていたという(『金沢・町物語』高室信一)。100mほど下に油瀬木といわれる堰があり、鞍月用水の取入口がある。正保年間(1644−8年)に設けられた。 |
(明治7年の洪水で流された)
明治7年7月(1874)に大きな洪水があった。向上藤棚にあった白山社は過半が流失したが、一部は約500mほど流され、現在の藤棚白山神社の地に止まったという。明治18年に当地に再建された。 |
(藩政期、明治期300年で最大の洪水は?)
藤棚白山神社由緒書きによれば、元禄二年(1689)に、石川郡法島村から藤棚の地へ移転し、成福寺白山社と号したという。 1689年に建立されてから約200年間無事であった。天明3年(1783年)に大きな洪水があったが被災は免れた。ということは、その間の最大の洪水が明治7年7月のものだったことになる。 また、寛文8年(1668年)にも大きな洪水があった。1689年建立の21年前である。建立当時は、洪水の記憶も新しい時期であり、氾濫するところに建立することは考えにくい。寛文8年の洪水では藤棚の地は氾濫しなかったと考えるのが道理というものである。 つまり、藤棚が氾濫したような洪水は、藩政時代にはなく、明治7年に初めて起きた。ということは、藩政期から明治にかけての約300年間の最大の洪水が、明治7年の洪水ということになる。 |
(洪水量の推定)
洪水量を大雑把に推定してみた。 川幅120m×水深3.6m×流速4m×係数0.5=900m3/秒 である。 藤棚付近の川幅を120mとした。水深は「石川県史料」から3.6mとした。流速は4mと仮定。昔は河川流路確保の管理がなされていなかったものとして、川の中に堆積した土砂や草木などの影響で河積断面が半分程度になると仮定し、係数0.5を乗じた。 |
(参考)
■1874■明治7年7月7日 手取川犀川洪水 ・犀川向上藤棚辺の堤防破壊して新竪町、本竪町筋水害〔金沢古蹟誌〕、県下大雨大洪水となる。6月下旬より雨やまず、6月29日より7月7日迄特に連日の豪雨、犀川は1丈2尺の増水、各河川も大水となり県下296ケ村で水田1,003町9反1畝、堤防決壊363ヶ所、14,921間が壊る、橋の流るるもの80、浸水家屋2,673戸、潰家36戸、流出家屋13戸、死者23名、5,021人羅災〔石川県史料〕(『石川県災異誌』石川県) 注)1丈=10尺=約3m、1丈2尺=約3.6m |
川上地蔵尊 | 地蔵尊の由緒 | 藤棚白山神社 | 神社の由緒 |
油瀬木(堰) | 下流から鞍月取入口を望む | 取入口の自動調節水門 | 道路下を鞍月用水が流れる。取入口 地点から望む。 |